阪神淡路大震災から今日で丸20年を迎えた。当時私はまだ新潟放送に在籍していて、地震当日は早番アナウンサーとして5時半に出社。6時のラジオニュースの準備をしていた。
午前5時47分、地震情報端末のサイレンがなる。当初は「神戸・震度5」という表示で、一番早かったNHKのテレビでも最初は「関西で大きな地震がありました…」といった通常の速報を伝えるトーン。
インターネットは出始めで、情報源としては機能していなかった時代、ラジオでは大阪支社と電話を結んで情報収集を。午前8時の段階でも、神戸での惨状はあまり伝えられていなかった。阪神高速道路が横倒しなったあの衝撃の映像を目の当たりにしたのは確か昼ごろになってからだったと記憶している。
20年という時の流れは情報伝達の目覚ましい進化をもたらしたが、どんなに情報の速度が早くなり、その精度が高くなったとしても、我々は過去の経験と記憶を鈍らせてはならない。あれから20年、そのことを改めて自覚したいと思う。
午前5時47分、地震情報端末のサイレンがなる。当初は「神戸・震度5」という表示で、一番早かったNHKのテレビでも最初は「関西で大きな地震がありました…」といった通常の速報を伝えるトーン。
インターネットは出始めで、情報源としては機能していなかった時代、ラジオでは大阪支社と電話を結んで情報収集を。午前8時の段階でも、神戸での惨状はあまり伝えられていなかった。阪神高速道路が横倒しなったあの衝撃の映像を目の当たりにしたのは確か昼ごろになってからだったと記憶している。
20年という時の流れは情報伝達の目覚ましい進化をもたらしたが、どんなに情報の速度が早くなり、その精度が高くなったとしても、我々は過去の経験と記憶を鈍らせてはならない。あれから20年、そのことを改めて自覚したいと思う。